恵み・死・ぬいぐるみ
先週は山口県でも結構雨が降って、我が家の山が少し崩れそうだったので父と弟と3人で崩れそうな部分をシャベルで落として、土嚢袋に詰めて並べた。
結果、とても疲れて昼寝してしまい生活リズムが狂ったまま月曜日が始まりグダグダな日々を過ごす羽目になった。主に下痢気味だった。
橋本治の『小林秀雄の恵み』を読んだのはもうずっと前のことになるが(4月16日)、今もなお魚の小骨が喉に引っかかっているような感じで気になっている。
前月の山陽小野田市立図書館であったブックカフェで『小林秀雄の恵み』を紹介したがうまくいかなかった。原因は私がまだうまいことこの本を理解できていないからだ。内容を要約すると「やりたいことをやりたいようにやる」でそこに他人からの批評を反映するかしないかみたいな問題が絡んでくる的な……。
『急に具合が悪くなる』を読み「死」について考えていた。
哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂の往復書簡だ。基礎疾患がある人もない人だって急に具合が悪くなることがある。命や出会いや偶然について、わかりやすく解説し、深く抉ってくる一冊だった。
実は少し前、4月の終わりくらいからぼんやりとは考えていた。知り合いが亡くなったからだ。
知り合いとか家族とかの死とどう向き合いどのように折り合いをつけていけばいいのか?
2年前に飼っていた黒柴のモモ(♀)が死んだ。祖母が亡くなった日の朝も私がニートだったときもよく散歩に行った。散歩というか、まあよく走る犬だった。
モモが亡くなった日に家に帰るとすでに姿がなく、両親があまりにつらいからもう埋葬したと言った。両親の気持ちはわかったが、死に立ち会えなかったため実感がなかった。ただ、外の犬小屋から黒い生き物がのっそりと出てくるようすを思い出していた。
その翌日に腸炎で入院したので、モモが死んだという実感は余計に沸かなかった。家に帰ればモモちゃんが居る、という感覚が離れなかった。
死に立ち会えなかったり、葬式がなかったりすると喪失を抱えたまま過ごすことになるのだとわかった。
先週(山での作業の前日)本屋のワゴンに柴犬のぬいぐるみが沢山あって、思わす手のひらサイズの黒柴のを買ってしまった。
例え車までの短い数歩の距離でも、本と犬のぬいぐるみを持っているというのが気恥ずかしくてビニール袋に入れてもらった(有料)。顔が大きくて可愛いと思うのだが母には不評で、父はそろそろ次の犬を飼おうかと言いだし母が止めた。
昔、妹がまだ働き始めたばかり頃(たぶん11年前)に、仕事先の後輩がちょっとした体調不良とか絶対に仮病だろって理由で休むから困ると愚痴っていた。ある日その後輩が「飼っていた猫が死んだので休みます」と電話をかけてきたという。
当時は「猫が死んだくらいで休むな」という愚痴は頷ける内容だったが、今は休んでも仕方ないなと思う。時代がかわったし、私の認識もかわった。
明日はポエムカフェがあるので詩を書こうと思う。
コロナで自粛中には何か書くという気分になれなかった。詩にせよ何にせよコロナのことから離れられないのがわかっていたから、書けないというよりは意図して書かなかった。今はもうコロナがあることが普通になったのでそこまでの影響は受けないだろう。いや、別に影響を受けたっていいけど(コロナに絡めたサビだけの曲は作ったりした)。
ブックカフェもあるから最近読んだ本を紹介しよう。何にするかな。
嘉村礒多についても考えている。遺作となった『冬の午後』を読むと死の影が色濃く迫ってきている。それでも、なんとかしようとアレもコレもまだまだやりたいことがようけぇあるんじゃという気迫が伝わってくる。
その必死さを見習いたい反面、頑張りすぎて入院した経験もあるからさじ加減が難しい。
今週は腹が痛いながらも色々な発見が多かった。いや、腹が痛いながらも、ではなく、腹が痛かったから(急に具合が悪くなったから)発見できたのかもしれない。
詩や小説はこういう風にやれば良いのでは? という発見があった。それだけでスラスラ書ければいいのだが。
キーワードが必要なのだと気付く。作品と受け手を結びつけるキーワード。
脚本家・岡田麿里が天才的にうまいやつ。まぁ、言うは易く行うは難し。