「迷い」について本気出さず考えてみた

今月の哲学カフェは中止となった。

テーマは「迷いとは何か?」だった。

かなりタイムリーなお題である。

まさに今、多くの人々が「迷い」に直面しているであろう。

イベントを開催するか中止にするか、どこまでの外出が世間的に許されるのか、トイレットペーパーを買うか、もしくは買い占めるのか。

「迷い」というより「悩み」の方が適切だろうか?

迷いと聞いて最初に思い浮かべたのが八九寺真宵化物語)なのがツライ。

そしてどんなキャラでどんなストーリーだったか詳しく思い出せないのもツライ。

 

昨年の今頃は虫垂炎で入院していた(いつの間にかピエール瀧が逮捕されていた)。

そのときに、手術するか薬で抑えるか医者に聞かれてあまり迷うことなく手術を選んだ。だってものすごく痛かったからこの痛みがまたあるかもしれないという恐怖に耐えられなかった。

 

迷いの前には選択肢がある。AかBか。

ずっと前にテレビで見たシーナアイエンガーという先生が選択肢が多すぎると人は混乱してしまうというようなことを言っていた。つまり、31種類アイスがあるよりも定番の5種類くらいの方が売上が伸びるとか。いや、ジャムだったかな?

 

もしも哲学カフェがあったなら「迷い」をポジティヴに捉えるかネガティヴに捉えるかという問いが司会を務める哲学者・小川仁志先生から出されたと予想する。

私は「迷い」を決してポジティヴには感じることはできない。そんなものはない方が良いに決まっている。というか、迷わないときはおそらく自分が冴えているときだと思う。

「迷い」と「迷う」はうまく説明できないが、違うものとして捉えるべきかもしれない。

となるとテーマが「迷い」の方になったのはなぜだろうか?(そんなに深い意味はなかったりして)

 

今週はいつ髪を切りに行くかで悩んでいた、これも迷いだろうか?

土曜にするか日曜にするか、いやどっちでもいいんだけど。

本を買うにしても電子書籍にするか、紙の本にするか。もう本棚から溢れているぞ、しかしこれはいい本だったから紙の本も買っておこうなどというアホなことを少なくとも3回はやっている。でも、好きなアーティストの楽曲の先行配信は頑なにダウンロードせずにCDが出るまで待つ、なぁ。

迷い、あるいは迷うことの内容に対する興味の有無によっても変わってくる。

肉か魚か(飯)。海か山か川か(夏のキャンプ)、ハイヒールかロンドンブーツか(靴かお笑いコンビか)、ホワイトデーのお返しは何が正解なのか?(義理チョコのお返し難易度高くね?)明日は何を着て出かけようか、天気予報で気温を確認しようとしていつの間にかツイッターやってるパターン。迷いよりも自然に根付いてしまっている習慣の方をなんとかするべきかもしれない。

 

あなたにとって、「迷い」とは何でしょうか?

 

PS・今年の年末には「あーコロナってあれ今年のことかー、懐かしい」になってることを祈っている。