中原中也生誕祭 湯けむりを雨がすり抜けていました
中原中也生誕祭でした。
あいにくの雨。
空の下の朗読会ではなく、屋根の下の朗読会となる。
まずは中原中也記念館にて、最終候補の6作品をざっと読む。
それぞれ方向性がバラバラで、ほとんど好みでしかないような気もする。
しかし、中原中也賞は、選評委員の好みというかわがままで選んでいい賞だとも思う。
『する、されるユートピア』 井戸川 射子
母の死と主体の性別さえ曖昧な感じ、宇宙と土、年齢や時間を飛び越える。
具体的に死を乗り越えるための言葉が足りていないという認識。
字間の狭さが、脳内の混乱を表している(?)意図した字間なのか?
別れ(死)と出会いではなく、共有か同じ場所と時間を過ごすことが対比される。
他人の行動で思い出す自分の過去が同期(全く同じ)ではないけれど似ていてほしいという願望。
『リリ毛』 小縞山 いう
詩に小さい字と普通の大きさの字が使われている作品が半分くらいある。ルビのように見える。が、たぶん小さい字はささやく感じでイメージしてほしいということだろう。あまり効果的ではない気がする。
一つ目のちょっとどころではなくとっつきにくい詩が続くのであればもう諦めていた。 同じ大きさの字の詩はすらすら読める。
今更だけど「リリ毛」ってなに?
「海み」「夜る」などのおくりがなの意図がわからん。
『fey』殿塚 友美
クラフト紙と和綴じに箱入り、私家版で限定30部。よく作ったな。
アイテムとして欲しい。
内容はとてもわかりやすい。難しい言葉もなく詩も短い。
途中に入る詩ではない「ちょっとひとこと」みたいな文章が逆にきになる。
記憶というよりは今のこと。
デザイン的にも内容的にもきちんと落ち着いてコントロールしている感じがあって、落ち着きを与えてくれる。欲しい。
『傾いた夜空の下で』 岩倉 文也
短歌と詩の連作をどう評価するのかがわからん。どうするべきだ?
詩の内容が自分のと似ていて少し嫌だ(笑)
買ってもいい。買ってじっくり読まないとわからないことが多すぎる。
中也の影響があるように感じる。
詩と短歌は別に対応しているわけではないようだ。してるのか?
詩集? うーむ、歌集? うーむ。
Twitterで発表された作品が多い。Twitterで読むとまた印象が違うだろう。
『忘失について』 水下 暢也
昔あったかもしれないことを風景画として残しているイメージ。
脳内に浮かぶ風景がことごとくセピア色かモノクロ。
この作品集自体が忘れられたことのスケッチであるということ(たぶん)。
自分が思潮社の詩集に慣れすぎているため読みやすく感じる。
詩集はテキストのみでは比較できない。自分がその本を読みやすいかどうかも評価に関わってくると言うことを前提としたい。
『使い』 倉石 信乃
読むのがとても辛い。言葉がトゲトゲしている。
しかも勢いじゃなく「勢い(ノリのようなもの)」を技術として使いこなしているのでたちがわるい。
不満やストレスのはけ口として詩はあってもよいが、私はユーモアがほしい。
この詩集にユーモアが全くないわけじゃないが、とにかく辛い。
辛いのだ読むのが。
予習を終えて、朗読会の会場へ向かう。
昨年もいた人、いない人。
あ、海老名絢さんおる。ちょっと話す。
地元の小学生や今年の受賞者が中也に花を捧げたあと、屋根の下の朗読会が始まる。
毎年思うが、小学生男子の「汚れつちまった悲しみ」の汚れてなさがぱねぇな。
受賞者の朗読もあり、井戸川さんは朗読もうめぇ。昔、演劇をやってましたとか言われたら信じるレベル。
自分の詩の朗読は思っていたよりうまくいかなかった。
そういうこともある。中也は酔っぱらってからよく自分の詩の朗読をやっていたらしい。周りもみんな酔い潰れて聞いてないのにやってたとか。
そうやって、声に出すことでつかめるものもあるだろう。今回の私の朗読もきっと明後日くらいには意味を帯びてくるだろう。
海老名さんの朗読はよかった。文學界に掲載された詩の朗読だったのだが、一緒に掲載されたインパクトの強すぎる写真からようやく詩が詩として私のところにやってきた感じがあった。
朗読会のあとさすがにお腹がすいたので離脱する。
授賞式まで『ひかりがやわい』を読む。
『ひかりがやわい』海老名絢
おさめられた作品のほとんどが、現代詩手帳とかユリイカに掲載されたもので、完成度が高いと思われる(その完成度の高さはそのとき選評した人の基準である)。
日記のような詩集といえる、日常の詩といえる。
日常の狭さ、他人との関わりのなさと、深く関わることの怖さ、諸々から適度に逃げるということ。
ぐったりだけど肯定したい今現在への優しさ(ひかりのやわらかさ)が溢れている。
選考委員側に立てば、もっと深く潜れってことだろうか?(推理でしかないが)
感想をざっくり伝えてサインをもらう(ただのファンじゃねーか)。
最終候補には残らなかった。確かに今回の6作品と比べるとはじかれても仕方がないのかもしれない。6作品のどれも「これは自分のために書かれた詩集だ」と感じる人がいてもおかしくないし、まじで甲乙つけがたい。
現状問題があるとすれば、最終候補や他の投稿された作品を読み比べる場所が中也記念館にしかないということだろうか。
なんにせよ毎年、選評委員大変だな。おつかれさまです。温泉でゆっくりしていってね(唐突なネットスラング)。
授賞式が始まる。
— ヴィリジアン@文フリ東京ケ-50 (@Naka24Viridian) 2019年4月29日
会場がめちゃくちゃ明るい。 pic.twitter.com/z3lVKAz1p2
授賞式はスムーズに進む。相変わらずステージ上で座っている荒川洋治氏が寝ているように見える。
おめでとう㊗️ございます!!! pic.twitter.com/8kgqt39Z7U
— ヴィリジアン@文フリ東京ケ-50 (@Naka24Viridian) 2019年4月29日
佐々木幹郎による選考過程の説明は毎年面白い。
詳細はユリイカに掲載された内容とほとんどかわりないんだが、やっぱり直に説明をされると腑に落ちる。
しかし、ふと『する、されるユートピア』は母の死が描かれているが、全く「父」の存在がないことに気がつく。まぁ、いいか。
中也が描いた「死」と井戸川が描く「死」の違いについてふれていた。
一歩引いた冷静な視点というか。悲しみを客観的に捉える視点のブレのなさとか。
受賞者の挨拶では、もとのタイトルが「影響しあうユートピア」だったことがあかされた。する、される、のほうがええな。うん。(この「うん」がもう影響されとるやないかいという高度なノリツッコミ)
井戸川さんは朗読のときといい、挨拶といい堂々としているというか、さすが高校の先生だなと。
その後、作家の赤坂真理による記念講演があったのだが、あまりにも内容が悪かった。 中原中也の詩への感想というか雑感と、「サーカス」をテーマにした即興詩(エレキギターとの共演)という構成だったのだが、どちらもひどかった。
前半の講演は「え、レジュメ書いて来た? 大丈夫? 緊張してます?」というレベルのたどたどしさで、私を常に不安にさせた。
即興詩はまずどこまで練ってるのかか不明だし、どのように展開しようかという不安がヒシヒシと伝わってきて、常に私を不安にさせた。
「言葉を紡いでいくときの緊張感とギターの音とのコラボレーションが素晴らしかったです」と私が関係者なら頑張って褒めたたえただろうが、この日は詩集を7作も読み、朗読会にも参加したので文学的な感覚が研ぎ澄まされて作品やパフォーマンスに対するハードルが高くなっていたので、クソなものには堂々と自信をもってクソだと言いたい。
あの記念講演は私にとっては確実にクソだった(逆にとても良かった、という人もいることだろう)。
授賞式で会った知り合いと夕ご飯を食べに行く。
久しぶりに会ったのでものすごく長いこと話す。
お互いのこれまでとこれからには殆ど絶望しかないが、まあ仕方ないという話をする。 つまりはその絶望をどのようなユーモアでオブラートに包むかという話で、絶望の話ではなくオブラートと包み方の話になったので良かった(詩的に内容をごまかす高等技術。テストに出るぞぉ)。
まあ、中原中也賞が、島清恋愛文学賞のように一回中止になったりしないことを祈るばかりだ。
そうして詩人に優しい湯田温泉の1日は終わった。
一日中、湯けむりを雨がすり抜け続けていた。