おかきは文学だろうか?
昨日の深夜ブログに書いた短編小説は、先週の文学フリマ金沢の合宿のときに日本酒で酔っ払いながら交わした会話からうまれた。
翌日にイベントをひかえているとは思えないペースで皆が飲み放題のビールや地酒、持込みのシャンパンなどを飲みまくる中、明日の文フリではおかきの販売があるのだと耳にした。
おかき? なんで?
私は少しだけ嫌な予感がした。
なんか、文フリ大阪の開会式でやった「舞」みたいになりはしないかと。
文フリ大阪でなんで「舞」があったのか? 私も含めた参加者の殆どは未だによくわかってないと思う。
それが価値あるもので、「文学」であると信じるなら、その「舞」がいかに「文学」もしくは「文学的」であるかについての本をサークル参加して頒布するべきだっただろう。そこまではしないにしても、もう少し「なぜ舞をやらんといかんのか」についての説明は必要だったと思う。
そもそも、文学フリマはアニメ、マンガ、ゲーム等のいわゆる普通の同人誌即売会やイベントとは趣が異なる。
人気が出た作品の二次創作でそのときもっとも熱いジャンルの需要と供給が常に合致しながら、同人誌即売会やイベントは企画され盛り上がり持続する。コミケだって常に新しい作品で新陳代謝されながらこれまで続いてきた。もちろん、ジャンルがものすごく多岐にわたり一概には言い切れないだろうが。少なくとも常にそのときを代表するコンテンツなり作品に勢いを牽引されてきたことは間違いないだろう。
対して文学フリマは真逆のベクトルで、大塚英志の
「文学なんてマンガとか雑誌とかの利益で赤字補填して延命してるだけじゃねーか」
というごもっともな意見から始まった。
「延命させたきゃ自分でやってみ? 一回目だけなんとかする」
「お前が文学だと信じるものを持ってこい」
熱い呼びかけにそこそこの人数が参加して今に至る。その経緯は2011年に文フリ事務局が頒布した「これからの『文学フリマの』話をしよう」という本に詳しい。
出店要項にも、
- 文学フリマは「自らが<文学>だと信じるもの」を自由に出店する作品展示即売会です。
と書かれている。
私は何も、古典文学や芥川賞作品的な物のみが<文学>だと言いたいわけではない。ただ、サークル参加者は全員「自分の作品が文学だろうか?」という疑問を微かに頭の隅には入れておいてほしいと思っていて、それについて他のサークル参加者がどう考えているのか知りたかったから、金沢の合宿に参加したというのもある。
様々な意見を聞くことができたのは収穫だった。合宿ありがとう。
よし、「舞」は仮に文学だとしよう。歴史があり、残す価値があると信じ残そうとしている。たまたま、その活動の場として与えられたのが文学フリマ大阪の開会式だったと。
おかきは文学だろうか?
文学? 文学的? うーん、本ですらないしなぁ。
私はへべれけになりながらも
「とりあえず<文学>だとでっち上げてほしい」
みたいなことを言って、こういう感じの短編小説をおまけに、いや、小説におかきが付いてくれたらと大まかに物語の流れを話した。
その短編小説を読んで<文学>だと思うか、ただの小説のできそこないだと思うかは読み手に委ねられている。
残念ながら自分で読むと客観的にはなれず、何度読み返しても<文学>だとは思えない。